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勧善懲悪が怖い

物語の流れの一つとして「勧善懲悪」ってあるじゃないですか。 『水戸黄門』とか『遠山の金さん』とか、もう弁解の余地なく悪いやつがとっちめられて「とほほ〜」みたいなヤツ。「善は尊い、悪は死すべし」的な。最近、あの流れにとてつもなく恐怖を感じています。

自分で言うのもなんですが、私は悪側の人間だと思います。『悪側』っていうのは、悪を実行している訳ではなくて悪を実行し得る人間だという表現です。人のものを盗んだことはないですし、ましてや人を殺したこともないですが、黒い感情っていうのが自分の中に存在するっていうのは自覚していて、「俺はこんなギリギリで抑えているのに、なんで周りのみんなは誰一人として衝動的な事件を起こさないのだろうと」と不思議に思っています。実際のところ人の心は見えないので、もしかしたら全ての人間がそういうことを考えている可能性はあるけれど。

「悪は死すべし」という世界になってしまったらどうなるんでしょうか。うかつなことを言うと社会的に抹殺されるんでしょうか。そのうちマイノリティ・レポートみたいに犯罪予測ができるようになって何もしていなくても死刑に処されるんでしょうか。先日「蚊を殺した」とTwitterに投稿したらアカウントが凍結されたというニュースがありましたが、私が恐怖している世界を垣間見た気がします。
※ 騒動後日、Twitter運営から事実否定の回答が寄せられました

昔からある「勧善懲悪」のムーブメントが再発生した要因としては、ドラマの『半沢直樹(2013年〜2014年)』あたりが挙げられるかと思います。半沢直樹がヒットしてからというもの、こぞって様々なファクターが利用されるようになりました。「勧善懲悪」はその中の一つで、「悪人が懲らしめられる快感」を一つの売りとしている物語が増えたなぁと感じています。

更におそろしいことに『スカッとジャパン(2014年〜)』という、悪人が登場されるもあえなく撃退されるというシチュエーションコントのオムニバス番組が登場します。世の中は非情です。私のような悪党が成敗されることを望んでいるのだとひしひしと感じます。これを観るたびにストレスで胃がキリキリして、正直この番組が終わってくれるのが一番スカッとします。ちなみにうちの親はこの番組めっちゃ好きみたいですが意味がわかりません。親の心子知らずです。

最近だと『ペルソナ5』というテレビゲームも凄かったです。主人公一行が人間の歪んだ心を改心させる能力をもって、弁解の余地なしな悪人を善人に変えていきます。 で、途中で『人の心を変えるって人道的にどうなの?自分たちの判断でこんなことをしてしまっていいの?』って感じに悩むところがあるんですが、話が進むにつれて悪人の度合いが強くなっていき最終的には『法で裁けないトンデモな悪は俺たちでしか裁けない、俺たちが改心させなければならない』というスタンスで進んでいくため、上述した葛藤についてはなかったことになっていきます。更に、改心した悪人のその後は描かれません。主人公達の目的はあくまで悪人による被害者を減らすことで、彼らが改心したあとどうなろうとしったこっちゃないのです。基本的に、悪人は聴衆の前で謝罪し、その後は物語からフェードアウトし問題は解決となります。おそらく彼らの生活に平穏はなくなります。家族も後ろ指をさされながら生きていくことになります。因果応報と言ってしまえばそれまでですが、「悪は死すべし」という思想はこういったところにもありありと見受けられます。

良い人になるというのは非常に困難です。今まで発生していた欲を抑え、怒りを鎮め、他を労わる人間になるというのは、自己実現の中でも相当ハードルが高いです。海外に行って出家して断食してベリーロールで挑まなければ越えられないレベルです。一朝一夕で矯正できるものではありません。そもそも心を矯正しなければ生きていくことが許されないというのが、とても恥ずかしく、悲しい。

私は、『かちかち山』の狸ではありません。
『三匹の子豚』の狼ではありません。
ヘンゼルとグレーテル』の魔女ではありません。

私の悪はさほど大きくはありませんが、正義が過熱すればするほど、ちょっとした悪に火をつけられることもあるでしょう。火をつけた人は「人として当然のことをしたまでです」と爽やかに笑い、密かに自分の行為を誇らしく思うことでしょう。昔、不二子・F・不二雄の短編集で読んだ、正義の力を手にいれたスーパーマンが悪を問答無用で惨殺していくという話を思い出しました。世界がそれを最適解として選んでいくのであれば、我々小悪党には生きづらい世界となりそうです。